礼拝説教の要約

礼拝説教はYouTubeでライブ配信をしています。
午前11時頃から約50分です。

7月5日(日)

 「神をあがめるために」 ルカ17:11~19 

下半期に入ったが、これまでの半年間の恵みを神に感謝したい。この箇所では、イエスに癒された10人の内1人がイエスに感謝するために引き返した。イエスは「9人はどこにいるのか。…神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」と言われた。同じことを体験しても感謝する人が少ない。私たちはどちらだろうか。 

1.十人の癒し 

 ・イエスに祈った:イエスを出迎え、声を張り上げた(12,13節) 

 「イエスを出迎えた」:イエスの噂を聞いて癒しを求める→イエスに向く・ 

 「遠く離れたところに立ち」:ツァラアト故に人々から隔離されていた(レビ13)・ 

 「声を張り上げて『…私たちをあわれんでください』と」:必死に、謙って 

 仲が悪かったユダヤ人とサマリア人が協力した→1人では勇気も力も弱い 

 ・祈りが答えられた:「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」(14節)→レビ14 

 「彼らは行く途中できよめられた」(14節)・・・・・・・・・・・・ 

 イエスの言葉は癒されることの約束だと信じて行動に移した時、癒された 

2.一人のサマリア人の感謝 

 ・神をほめたたえた(15節) 

 「いやされたことが分かると」:神がなさった素晴らしい御業であると認める 

 「大声で」:神に対して→お願いする時と同じように、感謝する時も大声で・ 

 周りの人に対して→自分の身に起きたことを証しした 

 ・イエスに感謝した(16節) 

 「引き返して来て」:祭司に見せて社会復帰するより先に感謝をささげた ・・

 人に近づける者とされたら、まずイエスに近づきたい→関係を築く 愛 

 「足元にひれ伏して」:謙遜→憐れみによる 九人の人たちとの違い 

 本来は聞いて頂ける立場にいない者である 癒されて当然ではない 

 差別されていたサマリア人にもユダヤ人と等しく恵みを与えられた 

 ・イエスからの祝福を受けた(19節):「あなたの信仰があなたを救ったのです」 

 「信仰による救い」という大事な教訓を得た→ これからの人生に活かされる 

 「救ったのです」:肉体の癒しだけでなく、魂の救いも与えられた 

 霊的祝福は、神との関係を築き、永遠にまで至る 

 肉体の癒しは、一時的なことであり、感謝もその時だけで終わる・・ 

(結論)私たちも、神をあがめるために戻って来る者となり、主から、下半期への歩みへとつながる祝福、主との強い関係を築く霊的祝福を加えて頂きたい。 

 

 6月28日(日) 

伝道礼拝「あなたがたの中で罪のない者が」 ヨハネ8:1~11

聖書には今と変わらない人の姿が描かれている。自分に重ね合わせて見る。場面は、早朝の神殿でイエスを中心に人々が静かに教えを聞いていた時、騒がしい人々が来る。

1.律法学者とパリサイ人の訴え:旧約聖書を学び教える人たちと厳格に守る人たち

 ・姦淫の女を訴える:人々の真ん中に立たせて、その罪を暴く

 「この女は」と断罪→正義を語るが悪い人に対して尊厳がない

 ・イエスの告発をもくろむ:目的は律法や正義を行うことでなくイエスを訴えること

 「この方こそキリスト」と言われ人々の評判になっていることが面白くない

 姦淫の女を裁くことよりもイエスを裁き、陥れること→そのために彼女を利用

 「何と言われますか」→石打にせよと言えばローマ法に違反。愛のない非情な人

 石打にしてはならないと言えば律法に違反

2.イエスの返答:見事な返答

 ・「あなたがたの中で罪のない者が」:「この人に石を」この人に罪があると認める

 「罪のない者が…投げなさい」他人の罪を問う前に自分は?→裁く資格があるか

 罪の大小ではなく、あるかないか 他人との比較ではない

 ・イエスは身をかがめて:厳しい目で罪を追求されず、各々が己に向き合うよう促す

 ・「年長者たちから始まり…去って行き」:皆、自分に罪があることを認めた

 年月が経っても忘れずに罪の呵責がある しかし、その罪を持ったまま去った

3.姦淫の女の解放

 ・「女とともにイエスだけが残された」:イエスと一対一になった

 ・「だれもあなたにさばきを下さなかったのですか」

 「女の人よ」と彼女の人格を認め、愛をもって呼びかける

 「彼らはどこにいますか」→訴える者は去った・・・・・

 ・「はい、主よ。だれも。」:イエスだけ。しかし、「主」は赦すお方に違いない。

 逃げることもできたが、赦すお方の前にとどまった

 ・「わたしもあなたにさばきを下さない」

 石打に価する罪だが、赦す→イエスが身代わりに十字架にかかられるから

 私たちの罪の罰もイエスが十字架で代わりに負って下さった

 ・「行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」

 心を変えられて、新しい人生を始める→罪から解放される

(結論)主がいつもともにおられ、罪から守り、罪を犯さないように助けて下さる。それでも失敗しても、見放さず見捨てない主の前にもう一度立って赦して頂こう。罪を持ったまま去って行くのか、罪赦され罪から解放されるのか問われている。 

6月21日(日) 

 「彼を見つけて、かわいそうに思い」 ルカ15:11~32 

天の父はどういうお方かを父なる神をよくご存知のイエスのたとえ話から見る。 
1.父のもとを離れた弟息子(11~19節) 
 ・父は弟の要求に応じ財産を2人に分けた:財産権はあるが、存命中に分与は異常 

 息子の意図も、その後のこともわかりつつ、自由にさせた 止めても無駄 

 ・遠い国に旅立った:親子関係を絶って、離れて行った 

 父の愛を束縛にしか感じていなかった 一人で生きて行ける 自由を求めて 

 お金さえあれば好きなように生きられる 欲望のままに生きたい 

 ・財産を使い果たした:働かずに湯水のように使えばいずれなくなる 

 激しい飢饉が起こり、食べるにも困り、誰も助けてくれない 

 ・我に返った:父のもとにある豊かさ、安心、幸福に気づいた 

 帰る決心(方向転換)、認罪と謝罪、謙り 

2.弟息子を迎えた父(20~24節) 
 ・弟息子の帰りを待っていた:家まで遠かったのに彼を見つけて、駆け寄った 
 ・「かわいそうに思い…彼の首を抱き、口づけした」 

 怒りではなく、罪を犯した息子の苦しみを思いやり憐れむ 

 清潔で綺麗な服装の父が、ボロボロに汚れた息子を抱きしめて口づけした 

 ・親子関係を回復した:息子の言葉が終わらないうちに 

 父へと向かった時から赦していた 発言の前に心を受容 

 「死んでいた(断絶していた)のが生き返った(回復した)→弟息子の幸い 

 いなくなっていた(悲しんでいた)のに見つかった(喜んだ)→父の幸い 

3.兄息子をなだめる父(25~32節) 
 ・弟のための祝宴に怒って家に入らなかった:不公平だと思い、父の優しさに不満 

 自分=長年忠実に父に従って来た。友達と楽しむための子やぎ一匹も下さらない 

 弟=父の財産を食いつぶした。遊女と遊んだ息子のため肥えた子牛を屠った・・ 

・「父は出て来て彼をなだめた」:弟に対すると同じように、父の方から近づいた 

 ふてくされている兄に対し怒ることなく優しく「子よ」と声をかけた 

 「おまえはいつも私と一緒にいる」愛情を一杯注がれている←兄は義務感で従う 

 「私のものは全部おまえのものだ」豊かさを共有している→子牛どころではない 

 ・兄は与えられている愛と恵みに気づかず、感謝していない 

 心は父から離れ、弟と変わらない思いを持ち、弟を妬んだ 

 ・弟の幸福、父の幸福を兄もともに喜び祝うのは当然である→それが父の願い 
(結論)弟も兄も同じように愛した父、私たちも同じように愛してくださる神である。 

 

6月14日(日)

 「どんなにあわれんでくださったかを」 マルコ5:1~20 

使徒の働きの学びを終え、主の証人のバトンを私たちも受け取った。主の証人になった人は福音書の中にもいる。その一人である自称レギオンという人を見てみたい。 

1.レギオンを宿していた人の姿(1~5節) 

 ・「墓場に住みついて」:居るべき場所あるべき姿にない 正常な社会生活を送れない 

 ・「だれにも彼を押さえることはできなかった」:危険な存在で周りが迷惑していた 

 足かせや鎖で繋がれても砕いた 「ひどく凶暴で…」マタイ8:28 

 ・「自分のからだを傷つけていた」:自身も傷つけ苦しめる 自分も押さえられない 

 その心の苦しみは「夜も昼も墓場や山で叫び続け」る姿に現れる 

 ・「汚れた霊につかれた」(2)「悪霊につかれていた」「レギオンを宿していた」(15) 

 悪魔の支配下にあった レギオンはローマの6000人の部隊の名称 

 悪魔の誘惑、働きかけを受け入れた時、入り、支配される(ヨハネ13:2、26) 

 憎しみ、怒り、妬み、欲望などを持ち続けることは危険 

2.イエスがしてくださったこと(6~15節) 

 ・出会った:「迎えた」(2)「遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した」(6) 

 「神の子イエス」と認めつつ「苦しめないで」と。罪に向き合う痛みと苦しみ 

 「私とあなたに何の関係があるのですか」とイエスを拒否しようとした 

 ・「汚れた霊よ、この人から出て行け」(8):悪魔に命じられ、悪魔も従う 

 人は誰も押さえられなかったが、主は解放され、根本的に解決された 

 ・「汚れた霊どもは出て行って豚に入った」(13) ユダヤ人なら汚れた豚は飼わない 

 支配していたものの大きさを見える形に→どんなに大きな事をして下さったか 

2000匹の豚の犠牲よりも1人の人の救いが大事⇔豚の飼い主は損失の方が大事 

 ・「服を着て、正気に返って座っている」:あるべき姿 平安と自制 悪魔から解放 

3.与えられた使命(16~20節) 

 ・「人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと」主との関係を拒否した 

 ・「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい」 

 「お供させてほしい」願いは許されなかったが、迷惑と心配をかけた家族の所に 

 彼にただ「起こったこと」でなく「主が…どんなに大きな事をして下さったか」 

 「どんなにあわれんでくださったか」主の憐みと愛→それに対する感謝と喜び 

 ・「デカポリス(十の町)地方で言い広め始めた」義務感ではなく主への感謝と愛 

 驚いただけの人々の反応は気にならず、伝えずにはいられない思い 

(結論)伝道への情熱は、主が私にどんなに大きな事をして下さったか、どんなに憐れんで下さったかを思う時、溢れて来る。恵みを振り返り、感謝しつつ証しして行こう。